2008/09/15

かすかな記憶

本気で死ぬことを考えたのは小学生の頃でした。
それからしばらくは、普通の人生を送ってきたのです。
今、再び本気で死にたいと考えるようになりました。
小学生の頃と違って行動力がついています。
それでわかったことがあります。
簡単には死ねない。
腕を切るだけでも結構難しいです。人間の身体ってこんなに硬いのかなと思うくらいに。

2008/09/14

悪態

私の場合は、奈良の教員採用試験から戻ってきてすぐに実習に突入しました。
正直、今回の実習はとてもつらいものでした。
ところで、私は、教師という職業に就いている人に対して偏見を持っています。
異常にプライドが高く、自分が孤高の存在であるかのように振る舞う人がいるからです。
教員が専門的な職業であることには私も同じ意見ですが、だからといって謙虚さを失ってはいけないと思います。
謙虚さを失った教師は、その傲慢さを職場で遺憾なく発揮します。
誰もそれを止めることはできません。
それは、閉鎖的な職場だからです。誰もその異常事態に気づかないのです。
また、その異常事態に気づいたとしても止めることはできないでしょう。
異常にプライドが高いのですから、聞く耳など持たないのです。
そんな人になりたいと思う人がいるでしょうか。
もちろんいないでしょう。
さて、私も教員への道へ足を踏み入れているわけですが、当然、謙虚さを失った異常にプライドの高い教員にはなりたくはないです。
自分が教員になるなら、子どもに慕われるような、いわゆる良い先生になることはもちろん、同時に人間として、社会人としていわゆるいい人、良い人間になりたいです。
そして、教員になるのなら教員をして生きるのではなく教員として生きる方を選びたいのです。
今回の実習は、教員の色んな面を見ることができた実習でした。

こんな挨拶を来週してやろうか。

出来事

今日、ある方に呼び出された。
そして、プレゼントをもらった。
誕生日プレゼントだそうだ。
どうもありがとう。なんて言って良いかわからなかった。精一杯のありがとうを伝えたつもりだ。
今日は誕生日だったのだ。
そういえば、昨日の夜も友達から電話がかかってきた。
母からもメールが来てた。
俺はいつまでこんな状態なんだろうって、自問する機会が増えた。
このままじゃまともに社会生活なんて送れるのか、それすら不安になる。
下世話な話をすると、こんなので彼女なんてできるのかって思う。

もう22歳だそうだ。自分では歳はおぼえていない。誕生日がおぼえてる。まわりの人が思い出させてくれる。自分の生まれた日。
俺の生まれたときのことは、俺自身は知らない。俺以外の人なら知っている人がいるだろう。
その人達の話を繋ぎ合わせてみると、どうやら、俺が生まれたことは皆に祝福されたらしい。とりあえず今はこのことを事実として受け止めている。それは俺にとってとても幸せなことかもしれない。

自分を受け止めてくれる人が欲しいと思うようになって久しい。
もし自分のことを受け止めてくれる人がいてくれたら、俺はその人を受け止めることができるだろうか。もちろん、命を投げ出しても受け止めるつもりだが。

自分の生きる意味が見出せない。
生まれたくて生まれてきたわけじゃない。生きる意味がわからないし、自分の周りの全てがオブラートのような薄い膜に覆われているような感覚。水でぼかした絵の具のように世界が広がっている。自分の存在もぼやけてきている。
この人のためなら自分の命を投げ出せる、そう思える人と出会えば自分の生きる意味も少しはわかるかもしれない。

この世界をもっとはっきりと認識したい。

2008/09/13

偽善者

機嫌の良いときと悪いときで人への対応の仕方を変える人がいる。
いわゆる気分屋といわれる人だ。
そんな人と関わったとき、私は情けなくなる。
怒りを通り越すのだ。
そんな人と関わっている自分が情けなくなるのだ。

書き言葉と話し言葉

ある時、ある人に、メモをとるなと言われた。
子どもとかかわるときメモをとってはいけないと。
しかし、その人はこうも言った。
書き言葉と話し言葉は違う。書き言葉で話してください。話し言葉は書き言葉にしないと意味はない。
私が、メモをこまめにとっていた理由はこうだ。
人間が物事を記憶するときは内言という話し言葉で記憶している。
しかし、話し言葉はとても不安定なもので揺れ動くのだ。
だから、書き言葉、つまりメモにして記憶しようと考えていたわけだ。
そうすれば、その時の出来事や私の思いを正しく鮮明に記憶することができる。

このある人の言葉には矛盾が存在するのではないかと私は考えた。

そう考えた瞬間私は、うんざりする気持ちになった。

2008/09/12

AとBの狭間

例え話とか、何かを何かに例えるということは良くある。それが、意思疎通する上で効果的だからだ。
しかし、効果のない例え話をする人が多い。

会話をしている2人の人間AとBがいるとしよう。
あるαという物事についてAがBに説明する。
しかし、ABの両者でαについての概念が共有できていないのでAの説明はBに理解されない。
そこで、AはBと概念を共有しているβという物事に例えてαを説明する。
そうすれば、Bはβの概念から想像して、αの概念を大まかに理解できることができる。
例え話とは、こういう使い方をするものだ。
しかし、例え話をすることが格好良いと思っているのか、例え話をする自分に酔っているのか定かではないが、例え話を意味もなく連発する人がいる。
同じように、会話をしている2人の人間AとBがいるとしよう。
あるαという物事についてAがBに説明する。
ここで、違うことはABの両者で物事αについての概念が共有できていることだ。
つまり、BはAの言いたいことがわかる。
しかし、Aは例え話を始める。
Bにとってその例え話は時間の無駄で鬱陶しいだけである。

良い例と悪い例を示した。良い例のように例え話を使うと、話を聞く方もとても気持ちが良く、簡単に理解できる。
しかし、悪い例のように例え話を連発すると、何度も言うが、鬱陶しいだけである。
さらに、鬱陶しいばかりか話の本質を見失ってしまうおそれもある。

例え話というのは概念を共有するという役目がある、とても重要な会話の技術だ。
それを生半可な知識で行うことはとても危険である。
αをβに例えるならαについての知識は言うまでもなく、βについても深い知識を持っていなければならないからだ。
知識の量には限りがあるし、そんなに何でもかんでも深い知識を持っている人はいないだろう。
だから、例え話の連発はできないはずなのだ。
浅い知識や理解しかないものを例えに使うことは、相手に誤った概念を持たせ、それが正しい概念のように思い込ませてしまう危険がある。

例え話をするときは、概念の共有ができていないのを確かめ、本当にその例えで良いのか良く吟味する必要がある。

2008/09/07

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